前漢(紀元前202年紀元8年)の時代には『黄帝内経』という現在知られている最古の医書が編纂されている。後漢(25年220年)の時代に張仲景により『傷寒論』『金匱要略』が編纂される。『傷寒論』は現在医学でのインフルエンザと推測される急性熱性疾患をモデルに病勢の進行段階と治療法を論じた。伝統中国医学は張仲景によって初めて理論的に体系化されたともいわれる。
金・元時代(960年1367年)には金元四大家と呼ばれた劉完素、張子和、李東垣、朱丹渓らが現われる。『黄帝内経』の理論を元に六淫理論、四傷理論といった新しい理論が表された。一方南宋では「太平恵民局」という公立の薬局が設けられて医者や官民に良質な薬を提供するシステムが構築され、宋慈が『洗冤集録』という世界初の本格的な法医学書を著しており、こうした成果は南宋を滅ぼした元王朝にも継承された。
また、明の時代に医師の李時珍が『本草綱目』を著して薬学・本草学の分野でも大きな進歩があった。
日本には朝鮮半島を通じて、あるいは遣隋使・遣唐使によって中国から伝えられた。982年には現存する日本最古の医書『医心方』が丹波康頼によって編纂された。13世紀頃には禅宗の僧が医学の担い手となった。
しかし、日本で現在の漢方医学といわれるものが発展するのは16世紀になってからである。明に留学した田代三喜は金元医学を学んだ。その弟子であり織田信長に重用された曲直瀬道三は金元医学を解説した『啓廸集』を著わし、また医学舎「啓廸院」を創り多くの弟子を教えた。金元医学を元にした医学はのちに後世派(ごせいは)と呼ばれる。この時代に医学と宗教の分離が行われた。
17世紀には名古屋玄医が『傷寒論』への回帰を訴えた。後藤艮山、香川修庵、山脇東洋、吉益東洞らがこれに続いた。この流れは古方派(こほうは)と呼ばれる。後世派が陰陽理論や五行理論といった抽象的な理論に基づくのに対し、古方派は実証的に『傷寒論』を解釈することに務めた。しかし古方派の実証主義が結果的には西洋医学流入に伴い漢方医学が衰退する一因となる。
明治以降は西洋医学を学び医師免許を取得しなければ医師と名乗ることが出来なくなった。現在でもこの規程は有効であり、純粋の漢方医は日本には存在しない。ここに至り遂に漢方は壊滅の危機に瀕したが、1910年に和田啓十郎が『医界之鉄椎』、その弟子の湯本求眞が『皇漢医学』(1928年)を著わし漢方医学の復権を訴え、西洋医学を学んだ医師が漢方も学び実践する形で生き長らえた。1950年には日本東洋医学学会が発足。1976年には漢方方剤のエキス剤が健康保険適用になり、広く用いられるようになった。
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